ダンスドリルの歴史
ドリルチーム、その歴史と沿革
1. ドリルチームの歴史
1930年アメリカ。学生、特に高校生の多くが、飲酒・喫煙を日常的に行い、ドラッグに手を出したり暴走行為に加わったりする生徒も多く、その生活の乱れが大きな社会問題となっていました。当時、カリフォルニア州の公立高校において体育の教師として毎日高校生に接していたケイ・ティア・クロフォード女史はその状況に心を痛め、なんとかその解決のために力を尽くせないものかと考えていました。当時、高校生活において生徒の関心が集まるスポーツといえば、野球やフットボールという男子生徒のみが参加できるものばかりでした。多くの女子生徒はスタンドの片隅で試合観戦をし、応援をしているばかりだったのです。ケイ・クロフォード女史は血気さかんな女子高校生にも人の前に出て、その才能や個性を発揮することのできるチャンスを与えれば、間違った方向に進んでいくことを阻止できるのではないかと、思いつきました。
女史自身が経験していたバトントワラーの躍動感と、当時、すでにそれぞれの高校に存在していたマーチングバンドの規則正しい動きとフォーメーションとを融合する形で最初のドリルチームが誕生しました。全校生徒に参加させるために、まず正しく立つこと、そして元気に歩くことに主点を置き、ミリタリープリシジョンのカテゴリーが生まれました。 全員がひとつの指示にあわせ、同じ動きを瞬時に行うという訓練を通し、生徒たちは集中力と忍耐力、さらに仲間を思いやる優しい気持ちと協調性を学ぶこととなりました。多くの生徒がドリルチームに関心を持ち、学校の授業以外にも、クラブ活動として、さらに練習をするようになったのです。ケイ・クロフォード女史の育てたドリルチームの評判は瞬く間にカリフォルニア州中に広まり、そのテクニックを学ぼうと多くの高校教師たちが女史のもとに訪れました。それぞれの学校の体育の授業において、ドリル動作の訓練が取り入れられ、多くの学校においてドリルチームが生まれました。
生徒たちの関心はミリタリープリシジョンのカテゴリーのみにとどまらず、それぞれの個性・興味にあわせ、ドリルチームの基本動作は保持しつつもダンスのテクニックを加えたカテゴリー、フラッグ、バトンなど手具を持ったカテゴリーが順次加わっていきました。それぞれの学校のドリルチームがチームとして大きく成長した頃、学校どうし互いに演技を披露しあい、批評しあい、たがいに交流を深めたいという希望がでてきました。そしてカリフォルニア州のいくつかの学校が集まり、勉強会が開かれました。それが現在のミスダンスドリルチームUSAの始まりです。
ドリルチームの規則正しく、美しい動きやフォーメーションのおもしろさはたちまち人々の関心を集め、それぞれの地域でのイベントやスポーツ大会に招かれ、演技を披露するようになりました。ケイ・クロフォード女史はその頃から、厳しい約束事をドリルチームのメンバーに求めるようになりました。
「品行方正」「容姿端麗」「成績優秀」ということです。学校内において他の生徒たちの模範となるような生徒でなければドリルチームのメンバーになることは許されなくなったのです。その伝統は今でもアメリカのドリルチームには根強く生き続けています。
アメリカンフットボールやバスケットボールといった多くの生徒たちが集い、愛校心を高めあうようなスポーツの試合の応援にも登場するようになり、ドリルチームの中にチアリーデイング・ソングリーデイングも加えられるようになると、ドリルチームのメンバーはまさに学校の人気者、スターのような存在となっていきました。
大会も年々その規模が大きくなり、当初、カリフォルニア州の学校のみの参加だったものがユタ州、テキサス州、ワイオミング州などからの参加も、その数をのばしていきました。「品行方正・容姿端麗・成績優秀」な生徒たちは社会からも大きく評価され受け入れられ、ドリルチームのメンバーであることは、進学や就職の際大きく役立ち、生徒たちのその後の人生において大きなチャンスと幸運をもたらしていきました。ドリルチームで身につけたダンスのテクニックを生かし、ブロードウェイなどの、ショービジネスの世界で活躍をしたメンバーも少なくありません。
2. 日本におけるドリルチーム
アメリカのドリルチームの評判に関心を寄せた日本のプロの舞踊家によってドリルチームは1980年代初頭に日本に紹介され、ドリルチームの普及を目的としたチームが結成されました。各地でのスポーツイベントにおいてその演技を披露し、また様々なチームに指導をするという活動を通し、少しずつドリルチームの名前を広めていきました。また、アメリカのドリルチームが日本に招待され、様々なイベントやテレビ番組に出演し、その妙技を披露し日本でのドリルチームの普及に大いに貢献してくれました。
日本にはドリルチームが紹介される以前より、バトン競技がすでに世界レベルにありました。各校でのバトンチームのメンバーたちも、バトンを持たずに自由に表現できるおもしろさにも関心を寄せ、バトン以外のジャンルにも挑戦をしてくれました。日本においてのドリルチームの発展に大いに寄与してくれたのです。
その後、日本大会と世界大会を連日、連続して行う形で数年間にわたり東京の代々木第二体育館にて開催されました。そして大会スポンサー企業との関係で、開催地が名古屋のレインボーホールに移り大会規模は年々大きく拡大されていきました。
しかし、日本の経済状態の変化に伴い、せっかく発展をとげつつあったドリルチームの大会が一時期、存続の危機を迎えたこともありました。しかし指導者たちの情熱によりどうにか、その炎を消さずに大会を開催し続けることができました。1998年より現在の組織での運営を開始。2000年にアメリカの組織と同様、非営利活動法人としての認可も受け、故Dr. Kay Teer Crawfordの意志を受け継ぎ、日本でのダンスドリルの普及、発展のための活動を行っています。